
🇹🇭「ムエタイありがとう、日本ありがとう」と語る男
サワディーカー、ピーチャイです。
今日は、ランバー・ソムデート(Rambaa Somdet M16)の話です。いつもか。。。
本人に昔、聞いたことがある。
「日本に来る前、何してたの?」
ランバーさんははこう答えた。
「バイタク(バイクタクシー)してたよ。日本でK-1の試合に来たときは、ポケットに5バーツしかなくて、ホテルの水だけ飲んでただよ。」
彼はいつもこう言っていた。
「ムエタイありがとう、日本ありがとう。」
そして今でも、その感謝の気持ちを忘れていない。

🏆 ランバーはなぜルンピニー王者になれなかったのか?
ルンピニースタジアム。
ムエタイファイターの“聖地”と呼ばれる場所。
ランバーはそこで何度も勝利を挙げながら、ついにタイトルには届かなかった。
なぜなのか。理由を整理してみた。
✅ 理由①:軽量級黄金時代、ライバルが強すぎた
ランバーが活躍した90年代前半〜中盤の軽量級は、歴代最強クラスの猛者揃いだった。
🐅 当時の同階級の代表選手
- ヌンガーボーン・シットレチャー
- サーンクライ・シットクルオート
- ラムボージウ・ポータイロンルアンカマイ
- カオラン・カオウィチット(後のWBA王者)
軽量級の112〜115ポンドは“魔境”とも言える時代。
どの選手も王者レベルで、誰か一人が独占するのが難しい状況だった。
✅ 理由②:ルンピニー向きではない戦い方
ランバーのスタイルは、ルンピニーの“美意識”とは少し違っていた。
- パンチ主体でKO狙い
- 軽快なステップ&回避
- 組み・ヒジ・ヒザの印象がやや弱め
ルンピニーでは、「組み合いを制し、終盤で優位を見せる」=勝ち
という傾向が強く、ダウンをとっても勝ち切れない場合もある。
これは今でもムエタイ特有の評価基準として残っている。ONEができて変わってきたけど。
✅ 理由③:若くして国外に活路を求めた
1998年以降、ランバーは戦場を日本へシフト。
- MAJKF、AJKF、K-1参戦
- 山口元気、フィリップ・デ・シルバらを撃破
- その後MMAに転向し、修斗世界王者に
つまり、ルンピニーでキャリアを完結させなかった。
別の言い方をすれば、早い段階で「世界」に出て行ったとも言える。
🥋 それでも、ランバーは「伝説」になった
彼はルンピニーのベルトを持っていない。
でも、観た者の記憶に残る試合を数多く残した。

✅ 代表的なルンピニーでの勝利
日付 | 対戦相手 | 勝敗・内容 |
---|---|---|
1994-09-30 | Samandej Lookmongkwan | 2R KO(アッパー) |
1994-08-05 | Chakphet Kiatchaiyong | 2R KO(パンチ連打) |
1994-03-26 | Seua Or.Ukrit | 判定勝ち |
1992-11-17 | Jomtabnoi Sitkruod | 判定勝ち |
1991-11-08 | Yodkaen Ploysakda | 1R KO |
他にもルンピニーでの勝利多数。
彼がルンピニークラスの選手だったことは間違いない。
🔥 まとめ:「チャンピオンじゃなくても、伝説にはなれる」
ランバー・ソムデート。
チャンピオンベルトこそ巻かなかったが、彼の存在は間違いなく伝説だ。
- 苦しい生活からバイタクで生計を立て
- ムエタイと出会い、人生を変え
- 日本で愛され、修斗王者にまでなった
「ムエタイありがとう」「日本ありがとう」
彼がそう言うとき、本当に心からの言葉だと感じる。

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📌 本記事はピーチャイが執筆しています。
続く
ファスティングいいですよ

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